中国の政府系研究機関や大学の研究者らが、フィリピン最北端のバタン諸島(Batanes Islands)について「歴史的・法的に台湾(中国)に帰属する」とする独自主張を展開し始めた動きは、南シナ海での領有権問題に続く新たな火種として大きな警戒を呼んでいる。

この動きの背景と主張内容、そして安全保障上の影響について整理する。
1. 事態の経緯と中国側学者らの主張

広州市の暨南(きなん)大学で開催されたシンポジウム等で、南京大学や中国社会科学院などの研究者が提示した主張の骨子は以下の通り。
• 地理的・文化的な「自然の延長」論:バタン諸島は地理的に台湾島弧の南への自然な延長であり、先住民イバタン人の文化や考古学的痕跡から「台湾のオーストロネシア系文化圏」の一部であると主張。
• 歴史的管轄権の主張:明・清時代には台湾府の管轄下にあったとし、中国側に歴史的・法的な主権の起点があると定義。
• 「1898年パリ条約」の独自解釈:米西戦争終結時のパリ条約において、スペインが米国へ割譲したフィリピン領の北端が「北緯20度」と定められていたことを根拠とし、北緯20度以北にあるバタン諸島は当時の米領(現在のフィリピン領)に含まれないと解釈。
• 日比の海域境界画定への反発:日本とフィリピンが進める排他的経済水域(EEZ)等の境界画定交渉に対し、「台湾の主権を侵害する不法な手続きだ」と批判。
2. フィリピン・台湾側の反論と法的実態

この主張に対し、フィリピン政府や歴史機関、台湾側は即座に強力な反駁を行いった。
主な主張・反論の内容
・実効支配の歴史:スペイン統治下の1783年にカガヤン州へ編入されて以来、1909年の州格上げを経て、フィリピンが200年以上にわたり継続的かつ平和的に主権を行使している。
・パリ条約の解釈:1900年のワシントン条約などで領域の範囲が確認・明確化されており、国際法上バタン諸島がフィリピン領であることは確立済み。
・フィリピン政府の対応:テオドロ国防相は「歴史的・法的根拠が皆無の滑稽な主張(ジョーク)」と一蹴。国家歴史委員会(NHCP)や軍も「不可分の領土」とする抗議声明を発表。
・台湾(中華民国)の対応:外交部(外務省に相当)が、中国による「一つの中国」原則の勝手な拡大であり現状変更の試みとして「架空の虚構(ファンタジー)」と批判。
3. 安全保障上の狙いと地政学的波紋

防衛・外交の専門家は、今回の動きを単なる学術的議論ではなく、中国の認知戦(情報戦)および地政学的戦略の一環と捉えている。
① バシー海峡という「超要衝」の掌握
バタン諸島は、南シナ海と太平洋を結ぶシーレーンの心臓部であるバシー海峡のほぼ中央に位置する。台湾有事の際、米軍や志を同じくする国々が東側(太平洋)から救援に駆けつけるルートであり、中国海軍にとっては「第一列島線」を突破して太平洋へ展開するための生命線となる。
② 「観測気球」としての法的三分戦術
政府公式の声明ではなく、まずは「学者の論考」という形をとることで、自国の外交リスクを抑えつつフィリピンや米国の反応を探る観測気球(テスト)として活用している。過去の南シナ海(九段線)と同様、論調を慣らしながら徐々に事実上の管轄権主張へと押し広げる「サラミ戦術」の初期段階と見られている。
③ 日米比の安全保障連携への牽制
フィリピンは近年、米軍のアクセス拠点拡大(EDCA)や、日本との部隊円滑化協定(RAA)締結など、同盟・志同国連携を急速に強めている。この地域に「管轄権の疑義」を投げかけることで、日米比の安全保障枠組みの推進に揺さぶりをかける狙いがある。
まとめと今後の懸念

かつて南シナ海の人工島造営や領有権主張が非公式な理論から始まり、やがて海警局の船の展開や軍事拠点化へと進んだプロセスと今回のパターンは酷似している。
今後は、学説の主張にとどまらず、バタン諸島周辺海域への中国海警船の進入常態化や、台湾有事を見据えたグレーゾーン事態の創出につながる可能性があり、西太平洋全体の安定を左右する新たな警戒ポイントとなっている。