日本基督教団は70年代の全共闘・新左翼運動層が強い発言権を持ち「左傾化」した


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世間で指摘されている「70年代の全共闘・新左翼運動の影響を受けた層が日本基督教団内で強い発言権を持ち、当時の闘争手法や過激な反対運動との繋がりを維持してきた」という状況はは、同教団の近現代史における最大の内紛・停滞の原因となっている。

なぜそのような構造が生まれ、未だに影響を残しているのか、その背景と教団内部の現状についてまとめる。

1.「教団紛争」における新左翼・全共闘運動の流入

1960年代末から70年代初頭にかけて、教団内では1970年大阪万博の「キリスト教館」出展や東京神学大学の学闘などをめぐり、激しい対立(教団紛争)が起きていた。

この際、反体制運動に傾斜する若手牧師や学生(後の「社会派」)が、当時社会を席巻していた全共闘や新左翼(極左派)の運動スタイル(バリケード封鎖、糾弾集会、議事妨害など)を教団内に持ち込んだ。彼らは「国家権力と妥協する既存の教会体制」を徹底批判し、実力行使によって教団の主導権や委員会組織の一部を確保していった。

2.「70年代の手法」が教団内で固定化した理由

政治運動であれば時代の変化とともに組織が再編されるが、宗教組織のなかでは以下のような理由でそのスタイルが長年固定化してしった。

• 神学的正当化:「社会的弱者の解放」や「権力への抵抗」を「神から与えられた正義」と定義したため、反対派との議論や妥協を拒否し、非妥協的な闘争スタイルが維持された。

• 議場不成立・ボイコット手法:教団総会や区会(地方組織)において、自分たちの主張が通らない場合に議場を占拠したり議事を空転させたりする手法が常態化。これにより、教団全体の意思決定が長年にわたり麻痺・空転した。

3.三里塚(成田)闘争や基地反対運動での接点

社会派の牧師や活動家は、1970年代から三里塚闘争(成田空港建設反対運動)や沖縄の米軍基地反対運動、各種の反原発・反安保運動の現場に深く関与してきた。

これらの現場では、極左エマルジョン(新左翼各派)や過激派市民団体と同調・連携するケースが多く、教会の施設やネットワークが運動の拠点や支援窓口として機能することがあった。外部から見ると「教団が極左活動家を組織的に支援・擁護している」と映る大きな要因となっている。

4.内部での激しい対立と現在の限界

ただし、教団全体がこの勢力に一枚岩で支配されているわけではないようだ。

• 教会派(伝統派)からの強い反発:礼拝や伝道を第一とする「教会派」の牧師や信徒からは、「政治運動偏重によって伝道が妨げられている」「一般の教会員の献金が特定の政治活動に使われている」として長年にわたり激しい批判と抵抗が続いている。

• 高齢化と運動の縮小:70年代の闘争スタイルを牽引してきた活動家や牧師世代は、現在70代〜80代となり極めて高齢化している。若い世代の信徒や牧師の多くはこうした過激な政治運動に無関心あるいは批判的であり、運動自体は急速に求心力を失いつつある。

まとめ
「70年代の過激派的スタイルを引きずる勢力が教団内に一定の拠点を保ち、社会的運動で強い存在感を示してきた」というのは歴史的事実だ。そしてそのことが、一般社会からの孤立や、教団内部の深刻な分裂・衰退を招いた最大の要因の一つとして、今なお教団内で議論され続けている。

なお、日本基督教団の「左傾化」や社会運動的傾向の歴史については続編にて