B_Otaku のクルマ日記


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2019/7/10 (Mon)  50年前のレーシングカー<3>

前回の続編としてフェラーリの続きをお送りする。

Ferrari P 続き
1966年のルマンでは 330P3 でフォードに優勝を許してしまったフェラーリは、1967年には 330P4 にて挑む事なった。P4のエンジンは同じく 4.0L だがシリンダーブロック&ヘッドを新設計として吸気1、排気2の3バルブへと変更された。また P3 のリタイヤの原因となったミッションやリアブレーキも変更されて66年末にはデイトナでのテストでフォードGT マークⅡの持つラップレコードを塗り替えてしまった。

そして1967年の結果はデイトナ24時間では P4 が見事に1、2位を獲得し、更に P4 のボディに P3 のエンジンを搭載して、バックアップ用としてプライベートチームに供給した 412P も3位に入賞し、ゴールラインは3台のPが横一線に並んでフィニッシュした。続くセブリング12時間はルマンに備えて不参加、モンツァ1000km では P4 が優勝した。

ところがルマンの結果はといえば、またまた優勝をフォードGT マークⅡに許してしまい、P4 は2位と4位という結果に終わってしまった。しかしその後レースでも順調に入賞したことから、ワールドチャンピオンシップはフェラーリが獲得する事となった。シリーズ優勝したのだから大成功なのだが、やはり当時でもルマン24時間で優勝するという事は大きな目標であり、これを逃したのはではシリーズ優勝の喜びも半減?という雰囲気だったのを覚えている。

なお当時のプロトタイプレーシングカーの中ではフェラーリ P4 (412P) のスタイルは群を抜いていた。

1968年はレギュレーションの変更で 3L 以上のスポーツプロトタイプが禁止となり、P4 やフォードGT などは参戦を見送っている。その代わりに米国の Can-Am (Canadian-American Challenge Cup、通称 ”カンナム” ) へと移っていった。

1968年の参戦を見送ったフェラーリだが、1969年は 312P での復帰となった。312P は 330P4 とほぼ同じ構成のシャーシ―およびサスペンションに F1 用エンジン (436hp) を耐久レース用にデチューン (420hp) して搭載していた。ボディーはオープン (Can-Amスタイル) で、短期間に開発する為にCan-Am用マシンを縮小した設計となっていた。

しかしデイトナ24時間はテスト中のクラッシュで出場せず、セブリング12時間では2位、BOAC 500 マイルでは4位と振るわず、モンツァでは2台体制となったが何れもリタイヤ、そしてスパ フランコルシャンでは2位と優勝からは見離されていた。そしてルマンでは2台ともリタイヤという不振に終わっている。

実はこの1969年は排気量が 3L に制限されたグループ6 (プロトタイプスポーツカー)に対して 5L まで可能なグループ4 (スポーツカー) の規定生産台数が 25 台となった事で、フェラーリは 512S を開発し年末からグループ4のホモロゲーションを得るべく生産を開始し、綱渡りの末に 1970年のシーズン開幕までに何とか25台をクリアした。このうち16台がプライベートチームに売却されている。

レースではデイトナに5台の 512S をエントリーしたが最高で3位だった。第2戦のセブリング12時間では優勝、BOAC 1000㎞ では5位、モンツァでは2~4位、そしてタルガフローリオで33位、スパフランコルシャン1000㎞ で2、4位と健闘はしていが、既にシリーズ優勝はポルシェに決定していた。

しかし価値という意味では別格のルマンにはワークス4台を含む11台の 512S がエントリーした。 にも関わらずワークスマシンは全てリタイアしプライベーターのマシンが4位と5位に入賞するに留まった。

1970年のシーズンの結果から明らかに戦闘力不足な 512S を 改良 (Modificata ,Modify) したのが 512M でほぼ別のクルマという位に変更されていた。そして1970年の最終戦に間に合せた 512M は圧倒的な速さで優勝した。

ところがマシンの高速化と開発費の抑制を理由として FIA は1972年からのチャンピオンシップは 3L プロトタイプのみとする発表を行った事で、フェラーリは1972年用の3Lマシン開発のために、512M は全てプライベーターに売却され為に、1971年はワークスの 512M の出場は無かった。

フェラーリが 3L用として開発したのが 312PB で、B は Boxer を表している。しかしこのエンジンは水平対向では無く 180° V型と呼びべきのものだった。このエンジンのベースは 1970年から F1 で使用していた 312B エンジンで 312PB では 440ph と発表されていた。シャーシーは 330P2 から続くセミモノコックで、サスペンションは F1 と同等の前後ダブルウィシュボーン、ブレーキも F1 から流用されていた。

しかしデビューレースとなった1971年ブエノスアイレス1000㎞ でドライバーが事故死し、その後も耐久力の低さからリタイヤが多かった。1972年はエンジンの耐久性を高め、しかも出力も450hp へと向上していた。その結果第1戦のブエノスアイレス1000㎞ から第8戦のニュルブルックリンク1000㎞ までの全てのレースで優勝し、ルマン24時間には出場しなかったがマニファクチャラーとドライバーの両タイトルを獲得した。

1973年は大株主となったフィアットの意向で大幅な予算節減を実施した事で、マシンの新造無しで出場台数も5台の所有マシンを2台と3台で使い分ける事になった。

1974年はフィアットから大幅なレース予算の削減を求められた事で、フェラーリのレース活動は F1 一本に絞られ、以後ワークスとしてスポーツカーレースに出場する事は無かった。

さて次回は60年代にフォードGT 、フェラーリPのライバルとして活躍したシャパラルを取り上げる。

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2019/7/8 (Mon)  50年前のレーシングカー<2>

前回取り上げたフォードGT と当時激しく争っていたのがフェラーリだった。

Ferrari GTO
1962年からスポーツカー選手権はそれまでのプロトタイプから量産車の GT カークラスとなり、これに合せてフェラーリは 250GTO を投入した。250GTO は 3.0L V12 エンジンを搭載し、GTO とは Gran Turismo Omologato 、すなわち GT 選手権のホモロゲーション (公認) 車という意味だった。結果として 250GTO は 1962~1964年 と3年連続で GT-Ⅲクラスのチャンピオンシップを獲得した。

このクルマが一般にも知られたのは2014年のカリフォルニアでのオークションで約39億円で落札された事だが、実は非公式では別のクルマが約51.7億で落札されたとも言われている。すなわちヴィンテージフェラーリとしても最も人気のあるものだ。

Ferrari 250LM
250GTO が3年連続でチャンピオンシップと獲得したとはいえ、既にフロントエンジンでは限界を感じていたフェラーリは、1963年秋にミッドシップエンジンの 250LM をデビューさせた。ただし実際には2台目からは排気量が3.3L 305ps を搭載していたために、275LM とも呼ばれている。なお、この LM とは Le Mans (ルマン) を表している。

250LM は1963年にプライベートのレースユーザーに販売され、プロトタイプとして熟成されたモデルは1965年のルマン24時間レースではフォードGT40 を破って総合優勝を獲得した。その後プロトタイプカーとして1970年まで活躍したという息の長いモデルとなった。

Ferrari P
1964年に発表されたフォードGT40は1964年のルマンでは優勝こそ出来なかったが、その驚異的な速さに脅威を感じたフェラーリは、1965年に既に開発済みのプロトタイプスポーツカー 275/330 P を全面改良した 275/330 P2 を投入した。
このPシリーズの由来はそのものズバリの Prototipo = Prototype だった。

エンジンは 275 が 3.3L V12 DOHC 350ps/8,500rpm、330が 4.0L V12 DOHC 410ps/8,200rpm を搭載している。話が前後したがフェラーリの車名には1気筒当たりの排気量で示すという仕来りがあり、275 は 275 x 12気筒 = 3,300cc となる。

この P2 は 1965年シーズンではセブリング12時間、モンツァ1,000㎞、タルガフローリオで優勝したがルマンでは出場した3台全てがリタイアし、その結果上記のプライベート 250LM が優勝したのだった。

1966年には 330P3 へと発展し、エンジンはダブルイグニッション化やキャブレターから燃料噴射へと変更するなど細かい改良を加えられた。

しかし結果としてはモンツァとスパでは優勝したもののルマンではP2、P3 とも全てがリタイヤという結果で、フォードGT マークⅡに優秀をさらわれてしまった。

フェラーリ P はその後 1973年までワークスとして参戦していたが、この続きは次回にて。

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