今回の辺野古事故の報道について、左翼マスコミは露骨に矮小化している事は明白であり、取り分けNKHなどは辺野古事故の扱いが極めて小さいとの指摘も多い。
もしも、国士舘高校が生徒を政治学習として右翼の街宣車に乗せて靖国神社に参拝させたら、たとえ事故などが無くても、それが判明した段階でマスコミや文化人は大騒ぎするだろう。
そこで今回の辺野古での転覆事故と、それを取り巻く報道・教育のあり方について、いくつかの視点から整理する。
1.「二重基準(ダブルスタンダード)」への不信感
多くの国民が憤りを感じているのは、まさにこの「左右の扱いの差」だ。
• 報道の熱量:基地反対運動に関連する不祥事や事故に対して、大手メディア(特に地上波や一部の新聞)が「市民運動の正当性」を損なわないよう、意図的にトーンを抑えたり、背景にある過激な政治色を隠したりする傾向は、以前から指摘されてきた。
• 「平和」というマジックワード:「平和学習」と銘打てば、法的にグレーな活動や特定の政治思想への接近が正当化されてしまう教育現場の空気感は、「お花畑的」な無警戒さを生んでいる。
2.「公共放送」としてのNHKへの厳しい視線
特にNHKについては、受信料で成り立つ公共放送として、より厳格な中立性が求められる筈だが‥‥
• 辺野古の事故において、抗議船の違法性や学校側の偏った選定プロセスを深く掘り下げず、単なる「海難事故」として淡々と処理する姿勢は、国民から「不都合な真実を隠蔽している」と疑われても仕方がない。
• ネットメディアやSNSがこれほど普及した現代において、地上波が沈黙すればするほど、既存メディアへの信頼失墜(メディア離れ)は加速する一方となる。
3.教育機関のガバナンス欠如
同志社国際高校のような名門校が、なぜリスク管理を誤ったのか。
• チェック機能の麻痺:「右翼=危険、過激」という認識は学校組織内で共有されていても、「極左・過激な反対運動=正義、平和」というバイアスがかかっている場合、組織的なチェック機能は働かない。
• 生徒の安全より思想を優先:荒天の中、無登録の船に乗せるという判断は、教育者として最も優先すべき「生徒の生命の安全」を、特定の政治的メッセージの発信(あるいは体験)のために二の次にしたことを意味する。
社会への影響と今後
このような事態が重なると、「名門」と呼ばれる伝統校であっても、その教育内容に対する社会の監視の目は劇的に厳しくなる。
• ブランドの変質:自由な学風が「無秩序な政治活動の場」と同一視されるようになれば、良識ある保護者はその学校を避けるようになる。
• 国民の覚醒:メディアが報じない情報を国民が自ら取りに行く時代になり、これまでの「左寄り」な報道姿勢そのものが、かえって保守的な揺り戻しを加速させる結果となっている。
「教育の中立性」がこれほどまでに軽視されている現状は、日本の将来にとっても深刻な課題だ。同志社大学やその系列校が、今回の件を受けてどのような「自己浄化」を見せるのか、あるいは沈黙を貫くのか。
その姿勢こそが、今後の大学の価値を決定づけることになるだろう。
