世界的に見ても希少な例である理想的な教育政策であった都立高校を崩壊させた学校群制度を推進した売国奴は誰なのか?
制度を導入したのは東京都教育委員会(当時の教育長・安西重直)で、それを政治的に強く推進したのは、美濃部亮吉 東京都知事(在任1967〜1979)だった。
偽善左翼の典型である美濃部は、「格差の是正・平等主義」を掲げており、このような「エリート校集中」を社会的不公平と見なした結果、導入されたのが学校群制度だった。
ところがどっこい、結果はお花畑の脳みそで考えたようにはいかなった。
・看板教師が退職・転出(教育の核が失われた)
・学校の独自性と誇りが消失
・優秀な生徒は次第に早慶附属・開成・教駒などの私立中高一貫へ流出
・都立の進学実績は急落
その結果、都立高校の東大合格者数は壊滅的に減少した。
(例:日比谷高校の東大合格者は1967年の約180人→1980年には1桁)
制度導入前の都立高校では、、 現在のような学区制の制約がまだ緩く、トップ校(日比谷・戸山・両国・小石川・西 など)は優秀層が一極集中していた。いわゆる越境入学なども多く、東京都もこれを黙認していたようだ。
加えて、これらトップ校にはカリスマ教師が存在し、東大入試の過去問を分析し尽くし、記述式解法を体系化し、模試・参考書よりも上質な授業を展開していた。
その評判が他校にも伝わり、特に12月以降になると、他校の生徒が無断で授業に参加する現象が各地で起こっていた。
実際に当時の教育雑誌では「□□高校の〇〇先生の数学Ⅲは、黒板が見えなくなるほど他校生であふれていた」とか「△△の理系教室は廊下の窓から聴講する他校生が並んでいた」という記事が載っていた。
そしてこれは学校側も黙認していて、その理由は
・授業をする教師の力量を学校の誇りとしていた
→ 「うちの教師に学びたい者が多い」ということが名誉だった。
・成績上位者の進学実績を優先
→ 教師の授業で日比谷や戸山の合格実績が上がれば、都教委も黙認せざるを得なかった。
・校門管理が緩く、出入りチェックがなかった
→ 当時の都立高は“開かれた学校”で、地域住民やOBも自由に出入りしていた。
・他校教師同士の暗黙の了解
→ 「良い授業なら聴講して構わない」という教育者間の共通認識があった。
なんとまあ、大らかでい良い時代だったものだ。
この学校群制度を強力に推進した東京都知事・美濃部良吉と言えば、学校群制度以外にも「ばらまき福祉」など数々のお花畑極左政策を実施し、東京都の財政は悪化の一途をたどることになった。
この辺の詳細は今後別途纏めようと思っている。