能力重視主義の都立高校を学校群制度で崩壊させた犯人は誰か【前編】




1967年に導入された都立高校の学校群制度は、 社会の階層的流動性を奪い、官僚層の質と志を変えてしまった。

そこで、先ずは学校群制度実施前の都立高校の状況を纏める。
当時の都立高校の授業料は月額600円、制服・教材も質素で、学費負担は家計にほぼ影響なし。
進学塾の普及も遅く、純粋に学校教育だけで東大・医学部へ進めた。
当時の東大合格者数(1960年代前半):
高校  東大合格者数 学校種
日比谷  約200名   都立
戸山   約100名    都立
両国   約80名    都立
小石川  約60名    都立
西    約50名    都立
麻布   約40名    私立
開成   約30名    私立

すなわち、貧しい家庭でも成績さえ良ければ都立トップ高 → 東大 → 官僚・大企業の道が開かれていた。

事実、戦後の中央官庁・銀行・マスコミ幹部には「都立出身→東大」の人物が圧倒的に多く、 これは明治の「学制」の理想――教育による階層上昇――を最もよく実現した時期だった。

この都立高校の利点を崩壊させたのが、1973年学校群制度だった。これは学区内の複数高校が同一群となり、成績順に自動振り分けされたことで、「第一志望の日比谷へ行きたい」という意欲が奪われ、競争が消滅。同時に、「受験偏重批判」→ 有力教師の追放・転勤、により進学意識のある層が私立(開成・駒場東邦・桜蔭など)へ流出した。
結果はわずか3年で日比谷の東大合格者は200名 → 14名(1973年)、戸山・両国なども同様に激減した。

この制度はその後の日本の発展の足を引っ張る結果となり、これは今でも尾を引いている。すなわち、「叩き上げ」「現場感覚」「庶民感覚を持つ官僚」が激減し、結果的に「一般国民の生活実感を理解せず、数値・制度・増税に偏った政策立案をする官僚層」が増えた。

教育社会学者・苅谷剛彦(オックスフォード大)氏はこの点を次のように論じている。
「日本のエリート教育は“平等な出発点”を失い、再び“選別の教育”に回帰した。
結果として、政策官僚の多くが社会的リアリティを欠く“閉じた合理主義者”になった。」

そして現在、日本の高級官僚、とりわけ財務官僚は国民の暮らしなどは全く意に返さず、自らの出世の為に増税にまっしぐら。正に「今だけ、金だけ、自分だけ」の典型となっている。

では、この学校群制度を推進した売国奴は誰か、これについては次回にて。
能力重視主義の都立高校を学校群制度で崩壊させた犯人は誰か【後編】