東京オリンピックに日本中が湧きに湧いた1964(昭和39)年、前年に行われた第1回日本グランプリで惨敗し、高性能が売りのプリンス自動車のイメージダウンは大変なものだった。そこで、ファミリーセダンのスカイライン1500のノーズをちょん切って200mm延ばし、そのスペースにグロリア用の直6OHC1988ccエンジンを押し込んで、日本グランプリ直前にスカイラインGTという名前で100台が限定生産された。 結局グランプリはポルシェ904GTに優勝をさらわれたが、2〜4位と十分な成績を残した。
グランプリ用の限定モデルだったスカイラインGTは、再販売を求めるユーザーに答える形で1965(昭和40)年に2000GT(S54B)という名称でカタログモデルとなった。 このクルマの仕様は、3基のウェーバーキャブで125psを発生するという、殆どグランプリ仕様に近いものだった。 その年の秋にはグロリアと同じシングルキャブ使用が追加され、このモデルはGT−Aと呼ばれ、従来のウェーバーキャブ仕様はGT−Bと呼ばれるようになった。 実際に当時、GT−Aは家の近所でも見かけたが、GT−Bは見た事がなかった。
発売の時点ではプリンスだったスカイラインは、ニッサンとの合併によって、後期のGTもニッサンスカイライン2000GTとなった。その後、S54はフルチェンジでGC10系(通称ハコスカ)となり、その後もスカGの歴史は続く。
この時代に、トヨタは贅を尽くしたグランドツーリングの2000GTを出したのに対して、プリンスはファミリーセダンを元にデッチ挙げたグランプリ専用車からの発展と、 その方向性はあまりにも異なっていた。しかし、トヨタ2000GTに比べれば現実的な価格(と言っても当時の庶民には手が出なかったが)と、セダンの形をしたレースカーという独特のコンセプトが、 その後30年以上もマニアに支持されて来たことになる。 |